親父の道具箱

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小学校高学年の頃だったろうか。左官をしていた親父が真新しい木製の道具箱をもって帰ってきた。両手で抱えないと持てないぐらいの大きさで、持ち手はなく、上蓋の一方を斜めに差し込んでから閉じて、差し込んだ方とは逆方向に3センチほどずらすとクッっとはまる仕組みになっていた。(時代劇で江戸のでーくさんたちが持っているあの四角い箱です。)
親父は顔が緩み、手でなでたり、縦にしたり横にしたりしながらそれを眺めていたのを思い出す。今までそんな道具箱はもっていなかったから、きちんと大工さんに頼んで作ってもらったのは初めてだったんだろう。

自分にとってのそんな道具箱はあるだろうか。確かに自分も30年ぐらい前、初めてパソコンを買ったときはあの時の親父のように、ずっと眺めてにやにやしてたような気がする。でも、見つめていた先は、パソコンの筐体ではなく、そこからケーブルで繋がったモニタの中。実存しない、箱の中身だった。

それも今や家に3台、会社に3台もあると、とても愛着のある道具箱とは言えない。むしろいつ壊れてもいいように重要なものはその中には入れないで、クラウドサービスに入れるようにしている。そのクラウドサービスとて決して手作り感のある道具箱とは言い難い。

改めて考えてみると、自分の道具箱はパソコンの中のさらにバーチャルな、自作のPHPのフレームワークかな?
フレームワークとは、新しいプログラムを書くたびに最初からいちいちゼロから書き始めるのではなく、ある程度使いまわしの効く部分を一塊の機能として作っておき、新規にプログラムを書くときはそれを拡張する形で利用する、いわばプログラムの基礎のようなもの。データベースにつないだり、表示用のテンプレートを使ったり、何種類かの認証方法を提供したり、暗号化したり、自分のプログラムを書くときの必須機能をいつでも利用できるようになっている。

オープンソースでそんなフレームワークはいっぱい出回っているが、いまいち馴染めなかった。万人が使えるものはそれなりになんでもできるが、その分基礎部分が肥大してしまい、ちょっとした小さいシステムを書くには使いにくい。

親父は15年ぐらい前に亡くなってしまった。それでも親父の道具箱はまだ実家の車庫にあり、親父が死んだ日も使うつもりであったろう道具がそのまま入っている。その人の使っているものはいつまでも残っているのに、その持ち主である人はなんでそんな簡単に死んでしまうのか。とても悔しい。

親父の道具箱と自分のものが徹底的に違うのは、自分のは自分の死と共になくなることだろうか。会社のパソコンはすぐに処分され、自宅のパソコンはそのまま電源を入れられることなく壊れ、クラウド上のデータもアカウントの消滅とともになくなってしまう。
そうしたら・・・

自分の娘はこんなブログを書くネタを一つ失ってしまうんだな。